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第一部◎東アジア情勢の変革期1010⑵ 鎌かま足たりの誕生 『藤とう氏し家か伝でん』『鎌かま足たり伝でん』(奈良時代・鎌足の伝記)では、推すい古こ34年(626)の甲こう戌じゅつ年に大やまと和国高たか市いち郡生まれ、父は中なか臣とみの御み食け子こで、母は大おお伴とも氏とする。「諱鎌足、字仲郎」と記す。「仲郎」という字じ義ぎからは、次男の可能性もあるが、一方で「長子」とも明記するので、何らかの事情があったのであろう。また、「鎌かま子こ」「鎌足」という呼称があるが、当時の呼称としては特段に呼び分けたものとは認識しなくて良い。 中臣氏は、神じん祇ぎを掌つかさどる家柄である。物もの部のべの守もり屋や没落時に、中臣氏の中心となる有力な一族が守屋と共に没落したため、鎌足の系統が本流になったと見られている。そもそもは傍ぼう流りゅうであることから、婚姻関係も中小豪族と結んできていたが、御食子の代には格式が高まり、大まへつきみ夫層に食い込んできていたとみられ、後述する舒じょ明めい天皇擁よう立りつの際にも、御食子は意見を述べている。鎌足の母が有力豪族の大伴氏出身であるのも、こうした地位向上を反映していると考えられる。 生年は『藤氏家伝』でも写本による差異がある。また『日本書紀』では天てん智じ8年(669)に「五十有六」で没したとあることから、生年は推古22年(614)と推定される。また、推古34年(626)は丙へい戌じゅつで、甲戌ではない。一方、推古22年(614)は甲戌である。これらから推測すると、推古22年生まれと考えるのが妥当である。この場合、『藤氏家伝』の「卅四」年を「廿二」の誤写と考えるには、あまりにも両者の字じ形けいに隔たりがあるので、むしろ『藤氏家伝』が元にした資料・記載等が何らかの理由で「戌」のみであったため、一巡の違いが生じた可能性などが想定されよう。 生まれた場所は、『藤氏家伝』は大和国高市郡にあった「藤ふじ原わら之の第てい」と記す。『多とう武の峰みね縁えん起ぎ』に「大和国高市郡大原藤原第」と見えること等も踏まえて、現在の明あすか日香村大字小原(飛鳥寺東とう方ほう)に比定される。当該地域には、鎌足の出生に関わる伝承(鎌足産湯井跡・誕生山)が残る。 一方、『多武峰縁起』は、鎌足の出生地を「常ひたち陸国鹿か島しま郡」とする「或説」も記載する。この伝承は、『大おお鏡かがみ』にも受け継がれ、また鹿島神宮周辺にも伝承が残る。図 3 藤原鎌足公誕生地(奈良県高市郡明日香村小原)

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