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第一部◎東アジア情勢の変革期1414⑷ 朝鮮半島の情勢 隋ずい成立時、朝鮮半島は高こう句く麗り・百くだ済ら・新しら羅ぎの鼎てい立りつ状態にあり、相互に離合集散を繰り返していた。大まかにいうと、伝統的な軍事強国の高句麗、文明的・文化的な力が優ゆう越えつする百済、新しん興こう勢力の新羅、という色分けができるであろう。 隋の圧力に直面した三さん国ごくは、一つには三国の抗争での有意性の確保をめざし、一つには隋唐帝国からの直接的軍事圧力を避けるため、外交活動を展開し、また国政の改革をすすめた。そして、改革を進めるためにも、外交を展開するためにも、迅速な軍事行動のためにも、意志決定の権力が分散していては不都合である。国力の増強や挙きょ国こく一いっ致ちを目指し、権力の一元化・一極化が進められた。権力集中は大きく二段階に分けることができる。第一段階は、隋王朝成立直後で、比較的緩やかな速度で進展した。官かん制せいが整えられ、中国との外交が積極化した。隋の高句麗遠征失敗、その後の唐とうへの王朝交替により、軍事的脅威はしばらく小さくなった。だが、唐の安定と発展、また朝鮮三国間での対立の深まりなどの状況によって、再び緊張が高まってくる中、640年代に入ると権力集中は第二段階へと朝鮮三国での権力集中は急激に加速した。 高句麗では、642年に泉せん蓋がい蘇そ文ぶんがクーデターを起こす。対唐穏おんけん健派の栄留王や王族・貴族を180人余り殺害し、傀かい儡らいの宝蔵王を擁よう立りつして莫ばく離り支しにつき、権力を掌しょう握あくする。傀儡王を擁し、有力な貴族(大臣)が全権を掌握する類型である。 百済では、642年に義ぎ慈じ王おうが自らに反対する王族・貴族等を悉ことごとく排除することで、権力の集中を図った。王が直接権力を掌握・集中するという類型である。 新羅では、真しん平ぺい王おうが官制の整備などを行ったが、その死後には善そん徳どく女じょ王おうがたった。新羅での伝統的王位継承に相当する男性王族が存在しないことからの即そく位いである。従来からの諸勢力を打だ破はし、権力の確立に進んでいるというよりも、既存の枠組みの中でなんとか調整しているという状況といえるであろう。新羅は、高句麗・百済との抗争で劣れっ勢せいであり、643年に唐に援軍を求めた。その際、女王であることが問題だと指摘され、唐の王族男子を王として派遣するという提案を受ける。 この提案にどう対応するかを巡り、647年、毗雲の乱が勃ぼっ発ぱつする。乱のさなか善徳女王が死去すると、真しん徳とく女王がたち、ついに乱は鎮ちん圧あつされた。 この乱の鎮圧を通じて、権力は真徳女王の元に集中するようになった。そして、乱の鎮圧や権力の集中を実際に支えていた図 5 6世紀の朝鮮半島

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