Nakanooenooji_Nakatominokamatari
16/62

第一部◎東アジア情勢の変革期1616⑸ 倭わ国こくの対応 推すい古こ朝の諸政策は、いずれも前述の国際情勢の中で模も索さくされた倭国の政治改革と位置づけることができる。 倭わ国こくは朝鮮半島の南に位置し、伝統的に朝鮮半島南部との関係が深かった。6世紀代半ばまでは伽か耶や諸国と百くだ済ら、伽耶諸国が百済と新しら羅ぎに併へい呑どんされて以降は百済との関係が深い。百済にとって、軍事的劣勢を、倭国を引き込むことで挽ばん回かいしようとすることは、有効な戦略だったと考えられる。高こう句く麗り・新羅も倭国との外交関係を構築して、三さん国ごく鼎てい立りつのバランスの維持、もしくは自国の優位を確保しようとした。 一方、倭国にとって朝鮮半島は、鉄資源を獲得するためにも、また中国の技術・文明・文化を摂せっ取しゅする窓口としても重要であり、古くは好こう太たい王おう碑ひの伝える様な軍事活動も展開した。また、朝鮮半島への影響力維持や国内での権威の確保を目論んで、中国の諸王朝、ことに南朝と外交関係を結んだ時期もあった。 遣けん隋ずい使しの派遣も、当初は朝鮮半島への影響力拡大の可能性や、情報収集といった程度の目的で開始されたと考えられよう。主として百済と連携して隋ずいと関係を結び、新羅や高句麗と対抗する方向性を模索していたと思われる。というのも、日本側に記録の残らない600年の遣隋使派遣と同年には新羅との戦闘があり、直後の601年にも新羅征せいとう討が企画されるなど、対朝鮮半島政策という点では従来と大差ない動きが見られるのである。 しかしながら、遣隋使の派遣を通して、隋と直接接触して彼ひ我がの圧倒的な格差を実感してからは、倭国もより積極的な国政改革、中国文明導入に着手する。一つは、中国との外交関係樹立で重要な価値体系の共有、すなわち礼れい制せいの導入であり、もう一つにはより実際的な各種技術・文化(統治技術、手工業生産技術など)の導入である。 推古11年(603)には冠かん位い十じゅうに二階かいを制定した。特に注目したい点は、儒じゅ教きょう的=中国的徳目に基づいた呼こ称しょうと冠位の上下を採用したことと、それぞれの個人の格付け・身分秩ちつじょ序を可か視し的に明めい示じできるようになった点である。大徳小徳大仁小仁大礼小礼大信小信大義小義大智小智濃紫薄紫濃青薄青濃赤薄赤濃黄薄黄濃白薄白濃黒薄黒冠位十二階(奈良県作成。冠の色は諸説ある)図 6 冠位十二階

元のページ  ../index.html#16

このブックを見る