Nakanooenooji_Nakatominokamatari
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第一部◎東アジア情勢の変革期1717 前者は、中国文明世界の秩序に仲間入りする方向性を明示したと評価できる。すなわち、礼制導入の一環である。後者もまた、国際標準に準拠した改革である。例えば遣隋使の様な外交使節の場合、使者がどの程度の地位を有するかは重要な問題である。この際、倭国内だけで通用する氏族の格付け「姓かばね」などでは、隋側では使者の格式を把握できない。従って、外交には個人の地位を端的に示す「位くらい」が必要であり、冠位十二階の制定はこうした要請に応えるものでもあった。 さらに身分秩序が可視的に明示されたことは、個人の出身氏族や地域、職しょく掌しょうなど様々な属性の中で、大おお王きみ(天皇)との関係、もしくは朝廷内においての身分秩序のみが強調されて、社会的に直ちに共有されるようになった、ということが出来る。個人を朝廷との関係のみで位置づける方向性が打ち出され、権威・権力や人間関係の集約という意味でも大きな意義を見いだすことが出来よう。 また、小お墾はり田だの宮みやの造営も礼制導入に対応した空間整備と評価される。中国式礼制導入に相応しい空間を用意すると、翌推古12年(604)には匍ほ匐ふく令れいの導入など、挙きょ措そ動作への礼制導入も行われ、推古13年(605)には服ふく制せいの改革が行われた。これらは、礼制導入に伴う改革という点では対隋外交を意識した改革だが、従来の秩序を組み替えているという点から考えると、朝廷への権力・権威の集約や再構成をもたらすものという評価も与えられるであろう。 かくして体制を整えた後に、推古15年(607)の遣隋使派遣が行われた。今回の遣隋使には、留る学がく生せいが含まれていた。留学生の派遣は、本格的かつ積極的な文化・文明・技術(統治技術も含む)の導入の必要性が痛感された結果であり、彼らが帰国することで、倭国の知や技術の水準は格段に進歩していった。 推古朝の政治体制は、王族・貴族間の抗争を最小限に抑え得る女帝を擁ようし、有力王族である厩うまや戸との皇み子こ(聖しょう徳とく太たい子し)と最有力貴族である蘇そ我が氏が協力するというものであった。これは、推古朝直前の王族・貴族の対立・抗争を踏まえ、各勢力が一定の妥協を承しょう服ふくした上で、安定した体制を確保する図 7 木造聖徳太子坐像(達磨寺所蔵・国指定重要文化財)

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