Nakanooenooji_Nakatominokamatari
20/62

第二部◎乙巳の変2020⑴ 舒じょ明めい朝での動どう向こう 推古36年(628)の推すい古こ天皇の崩ほうぎょ御は、皇位継承を巡る抗こう争そうを引き起こした。厩うまや戸との皇み子この子・山やま背しろの大おお兄えの王おうと田た村むらの皇み子この二人が有力候補であった。推古天皇は二人にそれぞれ遺い詔しょうを残しており、この遺詔の解釈や詳細をめぐって、激しい応おう酬しゅうが繰り返された。群ぐん臣しんも二派に分かれて、主張を展開した。田村皇子は敏び達だつ系(押おし坂さか王おう家け)の候補、山やま背しろの大おお兄えの王おうは上じょう宮ぐう王おう家けの候補で、この二つの王家と蘇そ我が氏の鼎てい立りつ状況だったとみる見解もある。 この抗争の中で、蘇我氏一族の中でも対立が生じた。特に、蘇我本ほん宗そう家けの当主・蘇そ我がの蝦えみ夷しの叔父にあたる、境さかい部べの臣おみ摩ま理り勢せは山背大兄王を強く支持し、蝦えみし夷と対立した。そして、蘇我一族による馬うま子この墓造営を、摩ま理り勢せはサボタージュして「蘇そ我がの田なり家どころ」に退たい居きょしてしまった。これを理由として、蝦夷は摩理勢の討とう伐ばつを行い、殺害する。 蘇我氏が反対勢力を武力で排除する方法からは、蘇我氏による権力の集中が感じられる。高こう句く麗りのタイプに近い、大だい臣じんによる権力掌しょう握あくである。また、蘇我一族の中でも、本宗家に権力を集中させる動きが明めい瞭りょうで、蘇我氏ではなく、蘇我本宗家が権力を集中しようとしている、と評価すべきであろう。 これらの紆う余よ曲きょく折せつを経へて、田村皇子(中なかの大おお兄えの皇み子この父)が即そく位いする(舒じょ明めい天皇)。舒明朝の政治基調は、原則的に推古朝のそれを踏とう襲しゅうするものであった。こうした中で注目されるのが、舒明2年(630)の第1回の遣けん唐とう使し派遣である。唐との外交関係を樹立して国際情報を入手するとともに、留る学がく生せいを送り込み、かつ引き揚あげることで、文化・文明や技術の導入を図った。一方、遣唐使帰国の際に唐が派遣して共に来日した使者・高こう表ひょう仁じんは、倭やまとと摩ま擦さつを起こした。冊さく封ほう体制下への組み込みを巡って、日にっ唐とう間でせめぎ合いがあったと言われている。 また、舒明11年(639)に着手された百くだ済らの大おお寺でらの造営も注目される。天皇による最初の寺院造営である。塔は九重という巨大なものであった。現在の通説では、現・奈良県桜さくら井い市吉きび備の吉き備び池いけ廃はい寺じが百済大寺とみられている。吉備池廃寺の塔とう基き壇だん規模は、飛あす鳥か寺でらのそれの2倍を優に超える。こうした巨大な塔の建立は、百くだら済の益いく山さん弥み勒ろく寺じ(639)・新しら羅ぎの皇こう龍りゅう寺じ(645か)など、当時の東アジア圏での「流行」だった。 先進技術の導入や寺院造営など、従来蘇我氏が中心であったが、遣唐使による直接的な導入などを通じて、天皇を中心とした朝廷全体としても行うようになった。さらに、百済大寺造営では、全国的な動員が行われており、天皇が縦割り型の人民支配を超越しようとする傾向とみることができよう。

元のページ  ../index.html#20

このブックを見る