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第二部◎乙巳の変2222⑵ 上じょう宮ぐう王おう家け滅亡 舒明13年(641)に舒じょ明めい天皇が崩ほうぎょ御した。中なかの大おお兄えの皇み子こは、舒明天皇の殯もがりでの誄しのびごとを奏そう上じょうした。中大兄皇子の、最初の公的な場への登場である。 舒明天皇崩御に伴って再び皇位継承を巡る駆け引き・抗こう争そうが勃ぼっ発ぱつする危険が高まる中、皇極元年(642)に舒明天皇の后きさきの宝たからの皇ひめ女みこ(中大兄皇子の母)が即そく位いした(皇こう極ぎょく天皇)。女帝の即位については、推古女帝になぞらえたという見方や、男子の皇族間での対立を回避するため、などの見方がされている。 642年といえば、高こう句く麗りで泉せん蓋がい蘇そ文ぶんのクーデターが勃発した年である。百くだ済らでは義ぎ慈じ王おうによる反対勢力の排除が行われた。倭わ国こくでも体制構築が急がれる状況だった。蘇そ我がの入いる鹿かは積極的に動いており、『日に本ほん書しょ紀き』はその様子を「専せん横おう」と呼んでいる。高句麗型の権力集中を企画していたことは明らかであろう。その際、大きな障害となるのは、山やま背しろの大おお兄えの王おうを中心とする上じょう宮ぐう王おう家けであった。 上宮王家は、蘇そ我が系の王族であり、本来は蘇我氏にとって有力な味方だったはずである。しかし、飛あすか鳥から離れた斑いかるが鳩に独自の拠きょてん点を構築し、また壬み生ぶ部べという人的集団を広く押さえていた上宮王家は、強い独立性と大きな実力を持ち、蘇我本ほん宗そう家けの意のままに動く集団ではなかった。かつて、権力の集中のために叔お父じの境さかい部べの臣おみ摩ま理り勢せをも排除した蘇そ我がの入いる鹿かを擁ようする本宗家にとって、上宮王家も当然排除すべき勢力であったろう。 また、上宮王家は、上述の独立性のため、王族の中でも特殊な位置にあった。天皇からみれば、天皇への権力集中の障害となり得る存在であり、王族にとっては独自の利権を多く持つ、利害関係の一致しない存在である。こうした状況の下、蘇我入鹿主導による上宮王家への攻撃が実施された。かくして、山背大兄王以下、一族は滅亡した。図 9 斑鳩と飛鳥の宮出典:千田稔『人をあるく 聖徳太子と斑鳩三寺』吉川弘文館発行

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