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第二部◎乙巳の変2323 軽かるの皇み子こ(後の孝こう徳とく天皇)らの参加も確認され、入いる鹿かの個人的な独どく断だん専せん行こうではないと考えられる。『家か伝でん』によれば、入鹿は、山背大兄王は自分達の一族・親族であるが、自分が皇位につけず不満をもっており、親族といえども国のために討伐する、と宣言し、諸王もこれに従ったという。一方、事じ変へんを聞いた入鹿の父、蝦えみ夷しが嘆なげいたというエピソードも伝わる。蝦夷は、蘇我本宗家にとって上宮王家を存続させた方が戦略的に有利だと認識していた可能性もあり、その場合蝦夷は、天皇や王族達の意い向こうに入鹿がまんまと乗せられたと感じたのであろう。世代間で権力集中の必要性の認識や、方法についての意見の相違があったためとも見られる。蝦夷は推古朝的な体制を模索していたのに対し、後述する入鹿の在り方から考えると、入鹿はより先鋭的な体制の必要性を痛感していたのではないだろうか。 ともあれ、上宮王家滅亡によって、蘇我本宗家に直接的に対たい峙じできる規模の勢力は、天皇家以外は壊かい滅めつした。高句麗型の権力集中は大きく進んだと評価できよう。一方で王族達と共同で行動したことなどからは、権力の集中が高句麗レベルには到達していないことを感じさせる。 この状況を、百済型の、王への権力集中を模索する方向を取る集団から見ると、蘇我本宗家の動きは、非常に危険だとうつったに違いない。天皇への権力集中を図った舒明天皇の子の中大兄皇子にとって、蘇我氏の動きは決して容認できるものではなく、一方自身への危き害がいの危険性も強く感じていたと想像される。図 10 若草伽藍跡(礎石)と法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺)

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