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第二部◎乙巳の変2424⑶ 鎌足と入いる鹿か・軽かるの皇みこ子   中なか臣とみの鎌かま足たりが『日に本ほん書しょ紀き』に登場するのは、神じん祇ぎ伯はくに任じようとされたものの固こじ辞し、三島の別業に退去したという、皇こう極ぎょく3年(644)正月乙亥条の記事まで降る。一方『家か伝でん』では、ほぼ同内容の記事を舒じょ明めい朝の出来事とする。時期にずれがあり、さらに後述する軽かるの皇み子こや中なかの大おお兄えの皇み子ことの関係や、僧そう旻みんの堂での勉学などを考えると、どちらもやや無理がある。皇極元年(642)の出来事とする研究があり、本書ではこの見解に従っておくことにしたい。 これ以前の鎌足の様子については、『家伝』に幾つかのエピソードが収められている。幼少時から学問を好み、特に兵へい書しょである『六韜』を読んで暗あん誦しょうした。容姿も堂々として優れており、権勢を誇る蘇そ我がの入いる鹿かも鎌足には一目おいていたという。 留学から戻った僧旻が、彼の堂に貴族の子し弟ていを集めて『周しゅう易えき』の講義をしており、そこには入鹿も鎌足も参加していた。鎌足が遅れて堂に入ってきた際、入鹿はわざわざ立ち上がって挨拶をしたという。また、旻はわざわざ鎌足を呼び止めて「私の堂で学ぶ者で、蘇我太郎(入鹿)に及ぶ者は居ない。ただ、鎌足の人相は非常に優れているので、自愛しなさい」と言ったとも伝わる。 これらの説話は、『家伝』の性格から考えてもすべてをそのまま事実と認めることはできないが、鎌足が最新の学問や知識を貪欲に摂せっ取しゅしていたことは間違いないと思われる。またこうした姿勢は、鎌足だけが特殊だったのではなく、当時の青少年はこぞって帰国した留る学がく生せいの元に学んでいたらしいこともうかがわれ、さらには入鹿もまた最新知識を貪欲に学ぶ人物だったことが知られる。 後に宿敵として、鎌足らが滅ぼすことになる蘇我入鹿の能力を讃たたえている点は興味深い。入鹿もまた、最新の知識を必死で身につけながら、大臣家の跡あと継つぎに相ふさわ応しい人物になろうと努めていたのであり、その能力も他に抜きんでていた。権勢を父から譲ゆずり受けただけの、無能で暴ぼう虐ぎゃくな独裁者ではないのである。むしろ、この様に有能でまじめで、最新の知識を身につけ国際情報を把は握あくしていたからこそ、時代や国際情勢に真しん摯しに向き合い、倭わ国こくの将来を考え、どうしても権力集中に邁まい進しんせざるを得なかったのではないだろうか。 一方、鎌足は、天皇や王族への権力集中を目指すべきだと考えていた様子である。入鹿と同様の知識・情報を身につけていたのであろうが、目指す方向性はまったく異なっていた。その理由は、神祇をもって朝廷に使えてきた家柄故に、特に天皇家に思い入れがあったのか、あるいは自らの地位上昇のチャンスを求めたのか、あるいは学問を進める中で大義名分に目覚めたのか、等いくつか想定できる。

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