Nakanooenooji_Nakatominokamatari
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第二部◎乙巳の変2525 筆者は、鎌足の、用心深く周到で、計画的な性格を考慮するならば、王族や豪族たちの意向や動向も把握した上で、蘇我氏への権力集中よりも天皇や王族への権力集中の方が、抗争が少なく、かつ時間的にも短期間に成し遂げられ、国際情勢への対応にも最も有利と判断したのが、最大の理由だったと考える。旻の堂での様子からも入鹿と鎌足が特に疎遠とも思われず、もし蘇そ我が氏へ権力を集中した方が、効率が良いと判断したのであれば、蘇我氏に荷か担たんした可能性もあったと思う。倭国の安泰と強化という大きな目標をしっかりと見据えた、徹底的なリアリストであったと考えたい。 さて、鎌足が天皇・王族への権力集中を選択した判断基準の一つとなったと思われるのが、軽皇子と中大兄皇子の存在であった。 軽皇子と鎌足は長年親しく、軽皇子の宮に泊まり込み、徹夜で語り合うほどの仲であった。そして、軽皇子も鎌足の能力を高く評価し厚こう遇ぐうしており、鎌足も軽皇子を天皇にしたいと語ったという。 一方で、軽皇子の器量はともに大事を謀はかるには足りない、とも評していて、鎌足の見解に矛盾があるように感じられる。 この点について、軽皇子は既に豊富な人脈を有していて、軽皇子が中心的立場となった場合に鎌足が主導権を握れないであろうことや、政治体制等の方向性が鎌足とは異なった可能性が指摘されている。私見では、『日本書紀』の伝える軽皇子の人となりが参考になるであろうと考える。軽皇子は、学問を好み、温和で、身分の上下を問わず分け隔へだて無く接する人物だった。鎌足は、彼の学識や人格を高く評価していたが、この穏やかでいささか理想主義的な人物では、共に政治を「語りあう」には良いとしても、クーデターの様な果か断だんさが求められる場面には必ずしも相応しくない。強大な蘇我氏を暗殺・クーデターで排除するという強きょう攻こう策を共きょう謀ぼうするには、より「英雄的」な人物の方が望ましい。こうした判断が、『家伝』の評ひょうになったのであろう。 そこで鎌足は、ともに大事を謀るべき人物を探した。一定以上有力な王族で蘇我氏と距離があり、しかるべき見識をもち、かつ果断で行動力のある人物として、鎌足が着目したのが中大兄皇子である。

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