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第二部◎乙巳の変3030 今回の、乙巳の変の「舞台」飛鳥板蓋宮中枢部の詳細は、発掘調査では明らかになっていない。そこで、想定をしたのだが、若干の飛躍がある。一応の根拠を示しておきたいと思う。 乙巳の変の記事からは、飛鳥板蓋宮中枢部には①天皇が出御した中心となる大型建物、②入鹿が座した建物、③これらの建物に近接した広場=庭、が存在したことが知られる。そして人物の動きとして、A中大兄皇子は①の建物の近くに隠れた、B中大兄皇子は②の建物に踏み込んだ、C入鹿の遺体は③に放置された、ことが直接的に描かれる。そこで、①と②が同じ建物か否か、という点がまず問題になろう。イ①と②が同じ建物であれば、中大兄皇子は皇極天皇の出御した建物に抜き身の剣を手に押し入って入鹿をその目の前で斬殺したことになり、ロ①と②が別の建物であれば、入鹿は必死に②の建物から逃げ出して①の建物に御す皇極天皇に訴えたことになる。 まず、乙巳の変の記事から考えてみたい。入鹿は自分の座から皇極天皇の御座の前に向かって移動し、自分の無実を訴え、それを受けて皇極天皇が中大兄皇子に下問し、中大兄皇子が「地に伏して」奉答していることから、入鹿が訴えた場所=中大兄皇子が答えた場所であり、また最後に入鹿が斬殺された場所ともみられる。そしてこの場所は、「地に伏して」という表現を文字通りの意味で理解すれば建物の外、皇極天皇が御す①の建物の前と考えられる。この観点からはロが優勢だが、「地に伏す」という表現が事実を直接反映しているかどうかという点が問題となる。また皇極天皇の御す建物に抜刀した中大兄皇子が突入していたならば、そのとき皇極天皇が何ら防衛の対応をしていない-逃げ出したりしていない-点が不審であり、この観点からもロの可能性が高いであろう。 次に、当時の宮殿空間とその使い方を探る観点から考えてみたい。 推古天皇の時代、小墾田宮は、南門-庭・庁-大門-大殿という構造で、外交使節は南門から庭まで入り、そこで使旨を述べ、国書は大門に奉呈された。天皇はその居所でもある大殿にいた。また大臣は、庁に座し、庁から庭に出て使旨を聞いた。これと比べると、乙巳の変では「大殿」相当とみられる「大極殿」の前、すなわち大門の内側で石川麻呂が使旨を読み上げており、大臣である入鹿も大門内にいる。大門内は天皇の私的空間であり、外国使節や大臣が入るべき場所ではないことは、他の記事からうかがえる。乙巳の変の空間は、小墾田宮の空間やその使い方とは、相違が目立つ。 乙巳の変の後、孝徳朝の様子は、大化・白雉年間の記事から整理することができ、【コラム】

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