Nakanooenooji_Nakatominokamatari
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第二部◎乙巳の変3131南門-庭-紫門-中庭-殿、である。この空間構成は前期難波宮(難波長柄豊崎宮)よりも前の時期にあたるが、発掘調査で明らかになった前期難波宮中枢部に非常に良く似ている。使い方の点からは、外交使節の記事はみられないが、白雉献上の儀式が記録されている。紫門の外に列立していた大臣をはじめ臣下が儀式のクライマックスで中庭に入り、殿に御す天皇に白雉を捧げている。この使い方は、乙巳の変での空間の使い方と良く似ている。以上から、飛鳥板蓋宮中枢部と前期難波宮中枢部の空間構成が、全く同じではないにせよきわめて似たものであろうと考え、前期難波宮中枢部の空間によって乙巳の変の経緯を復原した。①と②は別の建物と考えて、矛盾もない。皇極天皇は前殿に出御していて、後殿に入ったとみると、理解しやすい。 入鹿の遺骸が放置された場所が「庭」と記され「中庭」ではない点は問題が残るが、全体の方向性としては妥当だと考える。そしてこの仮説からすると、天皇の私的空間であった「大殿」が、公的空間である前殿と私的空間である後殿に分化した重要な画期が飛鳥板蓋宮に求められる可能性がある一方、この前殿はまだ公的な「天皇の占有空間」として確立していない=大極殿とは異なるという様子が想定されるのである。図 15 宮都の推移

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