Nakanooenooji_Nakatominokamatari
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第二部◎乙巳の変3232⑹ 孝徳天皇即位 入いる鹿か暗殺を目の当たりにした古ふる人ひとの大おお兄えの皇みこ子は、自分の宮に走り入った、つまり逃げ込んで、「韓かん人じんが鞍くら作つくり(入鹿)を殺した」と話して、伏せ込んだ。一方、中大兄皇子らは飛あす鳥か寺でらに入る。甘あま樫かしの丘おかの邸宅で健在な蝦えみし夷と対たい峙じするためである。中大兄皇子の下に、続々と王族以下人々が結集したという。そして、入鹿の遺体を蝦夷に送り届けた。 一方、漢やまとの直あや氏うじは一族で結けっ集しゅうして武装して蝦夷に従う構えを見せていた。中大兄皇子は巨こ勢せの徳とこ陀だを派は遣けんして説得にあたり、ついに解散させることに成功した。こうして帰き趨すうは明らかになり、蝦夷は自ら邸宅に火を放ち、蘇そ我が本ほん宗そう家けは滅亡した。甘あま樫かしの丘おか東とう麓ろく遺いせき跡の発掘調査では、焼しょう土どが広く確認されている。蝦夷が邸宅を焼き払った際の火災に伴う可能性もあるが、断定できるだけの材料は得られていない。またこの火災の際に、天てん皇のう記き・国こっ記きも失われそうになったが、国記のみは船ふねの史ふひと恵え尺さかが持ち出して救った。 漢直氏の動どう向こうが蝦夷から抵てい抗こうの意志を奪うばったと見られ、漢直氏の説得に巨勢徳陀が当たっていることを重視する見解がある。巨勢徳陀は軽かるの皇み子こと深い関係にあったため、徳陀が活動していること=乙いっ巳しの変に軽皇子も参さん画かくしていることと認識されて、この計画が中大兄皇子-鎌かま足たり-石いし川かわ麻ま呂ろに留とどまらない、有力皇族を含んだ広がりがあると蝦夷が判断したとする。徳陀の動きに限定されず、潮しお目めが変わったように諸勢力が反蘇我本宗家に動いたことが、重要であろうと思われる。図 16 甘樫丘東麓遺跡と出土遺物(陶片)(奈良県高市郡明日香村川原)

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