Nakanooenooji_Nakatominokamatari
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第二部◎乙巳の変3333 蘇我本宗家滅亡後、皇こう極ぎょく天皇は中大兄皇子への譲じょう位いを打だ診しんする。中大兄皇子は鎌足と諮はかり、鎌足は軽皇子への譲位を勧すすめた。鎌足は以前の約束を果たした、ということである。ただ、中大兄皇子の年齢は、この当時即位する年齢としてはやや若すぎるかとも思われ、有力王族内での年齢や地位を考えると、必ずしも鎌足の動きがなくても、皇極天皇から弟への譲位の方が自然だったと考えられる。軽皇子は譲位を打診されると、辞退して古人大兄皇子への譲位を進しん言げんするが、古人大兄皇子も辞退して出家してしまい、軽皇子が即そく位いすることになった。中大兄皇子は皇こう太たい子しに立てられ、鎌足は「内うちつ臣おみ」となった。 皇極天皇から孝こう徳とく天皇への即位は、天皇が生せい前ぜんに譲位した初しょ例れいである。蘇我本宗家の傀かい儡らいであった皇極天皇の事実上の廃はい位いとする見解もあるが、皇極天皇の弟が天皇になり、息子が皇太子に立っており、廃位とまで言えるか疑問が残る。事実上の廃位だったとしても、天皇が生前に退位できる、という先せん例れいを作った点は評価して良いだろう。譲位が可能になれば、群ぐん臣しん推すい戴たいによらずに、王権の主体的な関与による皇位継承の方向性を見いだすことも可能になると考える。 こうして孝徳天皇が即位し、「大たい化か」という元げん号ごうが立てられた。この大化という元号については、疑問視する見方もあるが、一応『日に本ほん書しょ紀き』の記述に従っておく。天 皇皇太子孝徳天皇国博士くにのはかせ(政治顧問)高向玄理旻たかむこのげん りみん(くろまろ)左大臣さ だいじん阿倍 内麻呂あ べのうち ま ろ中大兄皇子(20歳)内 臣うちつ  おみ(ない  しん)中臣鎌足(32歳)なかとみのかまたり右大臣う だいじん蘇我倉山田石川麻呂そ がのくらのやまだのいしかわ ま ろ図 17 新たな政治体制

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