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第三部◎大化改新3636⑴ 大たい化かの改かい新しんのはじまり 孝こう徳とく天皇即そく位い直後から、直ただちに各種政策が実施された。東とう国ごく国こく司しの派は遣けん(大化元年(645)8月)にはじまり、大たい化か2年(646)にはいわゆる「大たい化かの改かい新しんの詔みことのり」が出されたとされている。 改新の詔の評価は未だに定まっていない。ただ、今日最も通説的な見方は、後こう代だいの知識(大たい宝ほう令りょうなど)による文ぶん飾しょくも含まれているが、そこに示された「方向性」は当時目指されたものであり、まったくの虚きょ偽ぎとは言えない、というあたりであろう。孝徳朝には、立評など地方制度改革も推し進められた。 改新の諸政策や、日本古代国家・律りつ令りょう国家成立史の中での孝徳朝の位置づけは、近年高まって来ている。一方、これらの諸政策の発はつ案あん者しゃや担にない手が誰なのかは、具体的には分からない。史料上、中大兄皇子や鎌足がこれらの諸政策を主導したという記載は見られない。 皇こう太たい子し奏そうという形で、関与した案件に、部べ民みん制せいの廃止がある。天皇や皇族に隷れい属ぞくする屯みやけ倉や小こ代しろ・名な代しろの部民、職しょく掌しょうによって中央豪族に隷属する部民など、支配が縦たて割わり型がたになっていた。これらは、支配を天皇のもとに一いち元げん化かするためには解体する必要がある支配体制であり、その取り扱いについて皇太子中大兄皇子が諮し問もんをうけた(『日に本ほん書しょ紀き』大化2年(646)3月壬午(20日)条)。 中大兄皇子は、国に国王は一人だけであるから、部民制は解体するべきだ、と報ほう答とうし、自らの配はい下かにある屯倉・部民の献けん上じょうを申し出た。優等生的な回答で改革を推進する方向性に見えるが、実はすべてを献上しているのではなく、一部保留している。こうした点から、中大兄皇子は孝徳朝の改革に積極的に協力しているという見解と、守旧派もしくは既得権益擁護派で改革の抵抗勢力であるという、全く反対の見解が存在している。 積極的に改革に協力していると見た場合、孝徳朝の諸改革の立案や実行に中大兄皇子も参加している可能性を想定することが出来よう。一方、抵抗勢力とみた場合、孝徳天皇と一定の距離感があり、改革の立案や実行にもかならずしも関わっていないと考えられる。そして、どちらか断定できる材料には乏しいと思われる。図 18 日本書紀 大化2年3月壬午(20日)条

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