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第三部◎大化改新3838⑵ 石川麻呂の滅亡と山田寺 大たい化か5年(649)3月17日、左さ大だい臣じんの阿あ倍べの内うち麻ま呂ろが死ぬ。続いて24日には、右う大だい臣じんの蘇そ我がの倉くらの山やま田だの石いし川かわ麻ま呂ろによる謀む反ほん計画の訴うったえがあり、翌25日には一族と共に自殺に追い込まれるという事件が発生した。 訴えの内容によれば、石いし川かわ麻ま呂ろは中大兄皇子が海かい浜ひんに出でむ向いた際に害がいそうと計画している、という。石川麻呂の謀反を訴えたのは、異い母ぼ弟ていの蘇そ我がの日ひ向むかで、字あざなを身む刺さしという。中大兄皇子と石川麻呂の娘の婚こん姻いんに際して、娘を盗んだ人物である。なぜこのような曰いわく付きの人物の言げんをそのまま信じたのか、疑問は残るが、中大兄皇子はこの訴えを信じた。 孝こう徳とく天皇は、大おお伴ともの狛こま・三み国くにの麻ま呂ろ・穂ほ積づみの咋くいの三人を石川麻呂のもとに派遣して、事ことの実じっぴ否を問いただしたところ、石川麻呂は否定も肯定もせず、天皇に直接会って申し述べたいと答えた。三国麻呂・穂積咋を派遣して再度詰きつ問もんしたが、回答はおなじであった。 孝徳天皇は、軍で石川麻呂の宅を囲もうとしたところ、石川麻呂は次男をつれて大やまと和へ逃げ、山やま田だ寺でら造営にあたっていた長男興おこ志しと合流した。興志は徹底抗こう戦せんを訴えるが、石川麻呂はこれを諭さとす。翌25日には、山田寺に一族で集まって仏ぶつ殿でんの扉を開き、讒ざん言げんにより誅ちゅうせられるが、天皇を恨まない、などの誓いをたてつつ、仏像を拝はいしながら自じ経けい(首を絞めての自殺)した。 追っ手の大伴狛らはこの情報を得て引き返したが、木きの麻ま呂ろ・蘇我日向・穂積咋らの率いる軍が山田寺を包囲し、物もの部のべの二ふつ田たの塩しおに命じて石川麻呂の死体の首を切らせた。頭と体が繋がった状態よりも、両者を切り離した方が罰し方としては重い。また連れん座ざして、田た口ぐちの筑つく紫し以下14人が斬ざんさつ殺され、9人が絞こう殺さつ、15人が流る罪ざいとなった。 ところが、石川麻呂の資し財ざいを没収したところ、良いものには「皇太子物」という札が付けられているなど、中大兄皇子を大切にこそすれ害そうとする気配はなかった。石川麻呂の謀反は讒ざん言げんであることが明らかになった。 この謀反事件は、讒言した人物といい、それを鵜うの呑みにした孝徳天皇といい、さらにわざわざ死体を切断するまでの怒りの深さといい、不審な点が多い。また石川麻呂の謀反の対象が孝徳天皇ではなく中大兄皇子であったり、資財を通じて忠誠を誓っていることが明らかになった相手も孝徳天皇ではなく中大兄皇子である一方、死に際にして忠誠を確認した対象は天皇であったりする点も疑問である。 まず、石川麻呂が詰問に対し、天皇に直接話したいと答えたのは、この謀反事件捏ねつ造ぞうが、孝徳天皇が直接関与しないところで準備されており、詰問の使者に申し開きをしたところで効果が無い、と石川麻呂が判断していたからであろう。謀反の対象が中大兄皇子と

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