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第三部◎大化改新4040⑶ 難なに波わの長なが柄らの豊とよ崎さきの宮みやについて 孝こう徳とく天皇は即そく位い後すぐに難なに波わに遷せん都とする。幾いくつかの宮を経へつつ、最終的には難なに波わの長なが柄らの豊とよ崎さきの宮みやを造営した。難なに波わの宮みや下層遺構がこれに当たると考えられている。 外がい郭かくは約650m四方で、その東西中心軸線上(正確には中ちゅう軸じくかは不明だが、おそらく中軸線上)に、朝ちょう堂どう院いんと内だい裏りが南北に並ぶ。朝堂院の規模は、東西230m強、南北280m強。朝堂院内には14堂の朝堂が配置される。内裏本体と朝堂院の間には、内裏前ぜん殿でん区画と称しょうされる一いっ画かくがある。後の大だいごく極殿でん院に繋がる区画である。この内裏前殿区画の中心建物=後の大極殿相当の建物は、内裏内の建物=後の紫宸殿もしくは大極殿相当の建物と回かい廊ろうでつながる。さらに、この内裏前殿区画の東西には正方形の区画が存在し、その中に八角形の建物が建てられた。位置的には、蒼竜楼・白虎楼との関連性を想そう起きさせる。朝堂院の南、外郭との間に南北棟の長ちょう舎しゃが建つ。後の朝ちょう集しゅう殿でんに相当する建物である。その他、内裏東方には官かん衙が区画が、西方には倉庫区画が存在する。 規模も空間構成も、それまでの飛あすか鳥の諸宮殿を遙はるかに超えるものである。建築構造は掘ほっ立たて柱ばしらであり、総瓦かわら葺ぶきではないが、平面プランは、藤原宮以降の都城の宮殿のそれに類似する。それどころか、朝堂の規模は後の都城をも上回る。極めて画かっ期き的てきな宮殿ということができる。孝徳朝では、立りつれい礼の採用など、作さ法ほうや立ち居振る舞いの変革も行われた。また、難波宮では、日本でも最古級の木もっ簡かんも出土している。難波長柄豊崎宮が、空間構成や規模だけでなく、そこで行われた政務や事務作業まで含めて、先進的であったことを感じさせる事例である。 しかし、この難波長柄豊崎宮の空間構成は、そのまま次の時代には受け継がれなかった。木簡の利用も、爆発的に増えるのは、もう少し時代が降ってからである。こうした点から考えると、その先進性は、いささか先進的すぎた様にも感じられ、その造営に力を注いだ孝徳天皇の運命を暗示するようにも思われる。 さて、難波宮の地は、石いし山やま本ほん願がん寺じ・大坂城が築造され、周辺も市街地化が進んでいる。こうした条件にも関わらず、山やま根ね徳とく太た郎ろう氏を中心とした人々の献身的努力によって難波宮の遺構が確認され、その中ちゅう枢すう部が保護されていることは、奇跡に近いということができよう。

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