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第三部◎大化改新4242⑷ 斉さい明めい重ちょう祚そ 白雉4年(653)、中大兄皇子は倭やまとへの帰還を奏そう請せいするも、孝こう徳とく天皇に拒否される。すると、中大兄皇子は皇すめ祖み母おやの尊みこと(皇こう極ぎょく天皇)・間はし人ひとの皇こう后ごう・大おお海あまの人皇み子こらを率いて飛あすかの鳥河かわらの辺行かりみや宮に移ってしまった。さらに、臣しん下かの人々も皆これに従って移動した。孝徳天皇は一人難なにわ波に取り残された状態となり、恨みに思って位くらいを棄すてようとするという事態に至る。権力の中心は、孝徳天皇から中大兄皇子に移った。以後は、中大兄皇子を中心に政策が展開したものと理解される。 『日に本ほん書しょ紀き』によれば翌白雉5年(654)正月、鎌かまたり足に紫し冠かんが授けられ、封ふ戸こも増やされた。『家か伝でん』では、8月に紫冠が授けられ、8000戸の増ぞう封ふが行われたとする。時期に若干の差があるものの、鎌足が再び政治の表舞台に引き出されて来た様子が見て取れる。 この年の10月、孝徳天皇が不ふ予よとなり、中大兄皇子は皇祖母尊(皇極天皇)・間人皇后・大海人皇子らを率いて難なに波わの宮みやに向かうが、同月に孝徳天皇は崩ほう御ぎょする。そして翌斉明元年(655)には、皇極天皇が重ちょう祚そ(斉さい明めい天皇)する。女帝と有力皇族という組み合わせで権力を集中して国政を執り行うという体制は、新しら羅ぎの体制と極似する。 女王と男性という組み合わせは、日本列島では卑ひ弥み呼この時代も同様であり、推すい古こ朝も蘇そ我が氏の参加はあるものの、この組み合わせのバリエーションの一つと言えるだろう。新羅の善そん徳どく女じょ王おうは、予知能力を有していたという伝説があり、女王が単に政治的妥協の産さん物ぶつではなく、女性の持つ聖的・霊的な力を期待したものである事を示し唆さしているだろう。少なくとも7世紀代までの倭の女帝たちも、こうした聖的・霊的な力を一定程度は期待されていたのではないかと思われる。そして、7世紀半ばの極東アジア4国のうち、比較的周しゅう縁えんに位置し、文化・文明的には遅れていたと見られる新羅と倭がこの体制を選択し、かつ結果的にこの2国が生き残ったという点は、非常に興味深い。 斉明4年(658)孝徳天皇の息子・有あり間まの皇み子この謀む反ほんが発覚する。斉明天皇の牟む呂ろ行ぎょう幸こう中を狙っての計画であったが、多分に中大兄皇子の謀ぼう略りゃくにのってしまった面が強い。有間皇子図 23 石人像(飛鳥資料館・奈良県高市郡明日香村奥山)

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