Nakanooenooji_Nakatominokamatari
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第三部◎大化改新4343の殺害によって、中大兄皇子に対抗する王族は居なくなり、斉明天皇-中大兄皇子の権力は安定化した。 斉明朝は、飛鳥地域の整備という「造ぞう都と」と、東北地方への進出という「征せい夷い」、さらに朝鮮半島情勢への介入という「外がい征せい」の三つの事業が行われた。飛鳥地域では石を利用した施設群が構築され、その運搬用の運河(狂たぶれ心こころの溝みぞ)も掘くっ削さくされた。酒さか船ふね石いし遺跡の亀かめ形がた石いしも斉明朝に整備されたものであり、石いし神がみ遺跡でも斉明朝に広大な石いし敷じき広場・石いし組ぐみ大おお溝みぞ・井戸、建物群が計画的に配置された。同遺跡で発見された、須しゅ弥み山せん石せきや石せき人じん像も、これらの一部であったと考えられる。 これらは、倭わ国こくの首都たる飛鳥地域全体を、荘そう厳ごんするものと理解されている。石神遺跡は、飛鳥寺西方・甘樫丘東方の須弥山(『日本書紀』斉明3年(657)7月辛しん丑ちゅう条、同5年(659)3月甲こう午ご条)関連の施設群である可能性が高く、亀形石なども含め、道どう教きょうなどの影響も強いと考えられる。難なに波わの長なが柄らの豊とよ崎さきの宮みやが、思想的には仏教と儒教を下敷きとして、礼的秩序の体現を目指した合理的で「近代的」な空間であったのと比べると、斉明朝の飛鳥地域はマジカルな力を結集した空間だったということが出来るだろう。 そして、斉明朝期の石神遺跡で、東北地方で生産されたとみられる土器類も多量に出土しており、蝦えぞ夷の饗きょう宴えんに用いられたともみられ、水や噴水施設を伴ともなう服ふく属ぞく・饗宴施設であったことからも理解されるように、飛鳥の荘厳は「征夷」や「外征」または外交と密接不可分であった。征夷事業は日本海側を船で平へい定ていして行っており、本州のほぼ北端まで影響を及ぼしつつあった。図 24 須弥山石(飛鳥資料館・奈良県高市郡明日香村奥山)

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