Nakanooenooji_Nakatominokamatari
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第四部◎近江遷都と天智天皇即位4646⑴ 東アジア情勢ふたたび 高こう句く麗りでは泉せん蓋がい蘇そ文ぶんによる独裁体制によって、唐とうの侵攻を食い止めることに成功した(644-645、661年)。百くだら済は義ぎ慈じ王おうの下に権力を集中する一方、高句麗と同盟関係を結んで新しらぎ羅を圧迫した。高句麗・百済両国を敵に回す格好になった新羅は、高句麗との和わ睦ぼく(642年)を試みるが、不調に終わる。そして唐に接近し、援助を求めた。 唐は援助の条件として、新羅が女王を擁ようしていることが軍事的劣勢の原因のひとつであるとして、唐王朝の男子を王として送り込む、というものを示した。この条件を巡って新羅内部で対立が発生し、毗雲の乱が勃ぼっ発ぱつする。毗雲の乱を、王族の金こん春しゅん秋じゅうと、将軍金庾信の協力によって鎮ちん圧あつに成功すると、真徳女王-金春秋-金庾信への権力集中が急速に進んだ。女王と男性王族、それを優れた臣しん下かが支えるという類るい型けいである。 倭わ国こくとの連携を模も索さくした時期もあった(647年)とされるが、唐との連携を選択し、徹底した唐とう風ふう化を行う。649年衣服の唐風化、650年唐年号使用、同じくは笏しゃくの導入などが行われた。こうして、唐-新羅対高句麗-百済という対立の構図が出来上がっていった。 655年に、唐は再び高句麗侵攻を開始するものの、戦況は芳かんばしくなかった。一方、新羅側からは、百済の侵攻をうけての援軍要請が届く。唐は、まずより撃破しやすそうな百済を滅ぼしてから、高句麗攻略にかかるという戦略に変更して、660年、百済に攻め込んだ。海路から13万の唐軍、陸路から5万の新羅軍という。 一時は権力集中に成功して勢いのあった百済だが、専制体制の弊へい害がいも現れて国政が疲ひ弊へいしつつあった。唐・新羅の侵攻に対しても、有効な対策を打ち損ねているうちに攻め込まれてしまう。7月には義慈王が降こう伏ふくし、百済は滅亡した。 その後、唐・新羅連合軍の主力が高句麗に向かうと、各地で百済遺い民みんの反乱が勃発した。新羅や唐はこれらの反乱鎮圧にあたったが、反乱地域は後半に広がっており、すぐに鎮圧出来る情勢にはなかった。一方反乱側の百済遺民は、倭国と連絡を取りその支援を要請した。特に鬼き室しつ福ふく信しんは、660年10月に佐さ平へいの貴き智ちらを派は遣けんして、義慈王の子・豊ほう璋しょうの帰国と百済王への推すい戴たいを求めた。鬼室福信は、義慈王の父・武ぶ王おうの親族であった。一方、豊璋は皇極朝以来倭国に滞在していた百済王族である。義慈王が王族他を追放した際に、なかば追放されるように倭国に質しちとして送られたとも言われる一方、倭国内では一定の地位を築いていたとされる人物である。

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