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第四部◎近江遷都と天智天皇即位4747 蘇我入鹿が斑鳩宮を襲撃した皇極2年(643)の出来事として、『日本書紀』は次の様な記事を載せる。 百済の太子余豊が、巣4枚を用意して、ミツバチを三輪山に放った。だが、養蜂はうまくいかなかった。日本最初の養蜂の記録であるが、残念なことに不成功におわってしまった。 さて、この百済の太子余豊こそ、後に倭国を後ろ盾として百済復興のために朝鮮半島に戻り、百済王に推戴された豊璋である。彼は百済遺民軍の中心人物である鬼室福信と対立して殺してしまうなど、必ずしも戦乱の中の王として有能だったとは言いがたい面もある。 養蜂でも、他国王の冊立でも、豊璋が関わった「日本初」がどちらも失敗しているのは、偶然か巡り合わせか、歴史の不思議さを感じてしまう。 豊璋にコメントを求めたら、なんと答えるだろうか。【コラム】 この要請に対し斉明天皇は救援を承諾し、さらに自ら前線基地の筑つく紫しに赴おもむくべく、12月には難なに波わに向かった。さらに瀬戸内海を進み、翌斉明7年(661)3月には筑紫に到達した。国家の存亡に関わる大事であり、「斉明天皇の承諾」の背後には、必ずや「中大兄皇子の承諾」があり、またおそらくは「鎌足の承諾」も潜んでいたのではないかと想像される。中大兄皇子は斉明天皇の筑紫行幸に同行しており、7月に斉明天皇が筑紫朝あさ倉くらの宮みやで崩ほう御ぎょしてしまった後、称しょう制せいして自ら百済復興の陣頭指揮に立つことになったのである。図 27 橘朝倉広庭宮跡石碑(諸説あり)(福岡県朝倉市須川) 写真提供:朝倉市教育委員会

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