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第四部◎近江遷都と天智天皇即位4848⑵ 白はく村そん江こう 斉明7年(661)4月、鬼き室しつ福ふく信しんは再び豊ほう璋しょうの百くだら済帰還を申請した。9月に、豊璋に織しょく冠かんが授けられ、また多おおの臣おみ蒋こも敷しきの妹を娶めとらせた上、5000余りの兵力を添えて百済に送った。倭わ国こくにとっては最初で最後となる、他国の王の冊さく立りつであった。天智元年(662)にも軍事物資の援助を続けた。百済遺い民みん側は、この頃までは優勢に立っていた。天智2年(663)に入り新しら羅ぎ側が攻勢に出ると共に、兵力の増強を進める。倭国も増援部隊を派遣し、新羅攻撃を行った。だが、徐々に劣れっ勢せいに追い込まれた百済遺民側では豊璋と福信の対立が表面化し、ついに豊璋が福信を殺害する。経験豊富な、実質的な中心人物を失ってしまったのである。 倭国側はさらに兵力の増援を決定した。白はく村そん江こうで待ち受ける唐とう軍艦隊に対し、倭国軍が攻め込んだ。8月27日に前ぜん哨しょう戦せんとなる小こ競ぜり合あいがあり、翌28日に本格的戦闘になった。倭国軍は、劣弱な装備で、統一的な指揮系統を持たず、個別にひたすら突撃を繰り返すという戦法を取った結果、たちまちの内に壊滅状態に陥おちいった。この敗戦によって、唐・新羅連合軍と倭・百済連合軍のパワーバランスは完全に崩れ、百済遺民の反乱は一気に鎮ちん圧あつされていった。百済遺民は、現地に残って唐・新羅の支配下に入るか、高こう句く麗りか倭国に落ち延びるか、という選択を迫られることとなった。倭国へ向かう人々は、撤収する倭国軍とともに日本列島へと向かった。その数は5000人以上に上ると言われる。 白村江の敗戦によって、百済の復興は頓とん挫ざした。倭国にとっては、百済再興支援と百済王の冊立に失敗しただけではなく、次は倭国が唐・新羅連合のターゲットとなる危険性に直面することになったのである。実際、天智3年(664)4月には郭かく務む悰そうらが唐の百済鎮ちん将しょう・劉りゅう仁じん願がんの使者として対つし馬まにやってきた。この使者の迎げい接せつで、鎌かま足たりも活動している。 天智4年(665)には唐本国から劉りゅう徳とく高こうが使者として派遣され、7月に対馬、9月に筑紫、10月に宇治、11月に入京している。10月の宇治では閲えっ兵ぺいを行っており、倭国の軍事力の健在ぶりを誇示しようとした形跡がみられる。図 28 古代山城鬼ノ城(岡山県総社市奥坂) 写真提供:総社市商工観光課

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