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第四部◎近江遷都と天智天皇即位4949 こうした緊張状態のもと、防衛体制の確立が急がれた。天智3年(664)に、対馬・壱い岐き・筑紫には防さきもり人と烽のろし火が設置された。防人は、おそらくは東国から徴ちょう発はつされて配備されたのであろう。同年には、遠とおの朝みかど廷と呼ばれ、西さい海かい道どうの中心拠点である大だ宰ざい府ふ防衛のために水みず城きを構築する。翌天智4年(665)には大宰府防衛の拠点となる大おお野の城じょう・基き肄い城じょうと、瀬戸内海航路の入り口となる関門海峡防衛の拠点となる長なが門とに山やま城じろが築かれた。これらの諸城はいずれも亡ぼう命めい百済人が造営の指導に当たった。天智6年(667)には、高たか安やす城じょう・屋や嶋しま城じょう・金かね田だ城じょうの造営が記録される。文献に残らない多くの朝鮮式山城・神こう籠ご石いしも、この前後に構築されたものと見られている。こうして、九州~近畿地方の瀬戸内海航路に、山城による防衛拠点ネットワークが急速に構築された。 これらの諸城はいずれも、亡命百済人たちが関わって整備されたと考えられる。このことは、重要な事実を伝えてくれる。膨大な亡命百済人が倭国にやってきたことによって、各地方での技術水準が一気に高まり、急速な山城造営が可能になった。このような亡命百済人による地域の技術水準の急速な向上は、なにも山城造営場面に限ったことではないはずである。造営技術・農業技術・手しゅ工こう業ぎょう技術はもちろんのこと、行政運営能力、文字運用能力なども飛ひ躍やく的に進歩したと考えられる。7世紀第4四半期になると、木もっ簡かんの出土量が爆発的に増大するが、その背景にはこうした亡命百済人による、文化・技術水準の向上が潜んでいるのである。図 29 山城の位置関係提供:愛媛県西条市教育委員会

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