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第四部◎近江遷都と天智天皇即位5050⑶ 近おうみ江朝ちょうてい廷 665年に泉せん蓋がい蘇そ文ぶんが死去すると、高こう句く麗り国内での対立・抗こう争そうが深まった。ついに668年、高句麗は滅亡する。次の標的は倭わ国こくであるという風ふう聞ぶんも流れたものの、事態は違う方向に進む。朝鮮半島統一を目指す新しらぎ羅と、百くだら済・高句麗の故こ地ちを直接統治しようとする唐とうとの対立が深まり、戦争状態に突入したのである。倭国は唐・新羅の攻撃に曝さらされることなく、百済遺い民みんのもたらした技術・文明を社会に浸透させながら、白はく村そん江こう敗戦によって傷ついた国力の回復と、国家体制の変革と充実に努めることができた。 天智3年(664)には、甲かっ子しの宣せんと呼ばれる政治宣言を出し、官かん位い制の充実を通じて豪ごう族ぞくの官僚化を進め、氏うじの上かみ・民かき部べ・家やか部べを定めることで部べ民みん制の解体を促そく進しんするなど、集権化を進めた。これ以外の目立った国内政策は、防衛体制の整備や渡と来らい人じんの各地への配置などであるが、急速に国内体制を整備しつつあったとみることができよう。 しかしながら、これらの諸改革を行う際に、中大兄皇子は称しょう制せいのままで即そく位いしていない。即位しなかった理由には諸説あるが、孝こう徳とく天皇皇こう后ごうの間はし人ひとの皇ひめ女みこの死去後程なくして即位していることから、間人皇女の存在が理由であろうとする見解が有力である。ただし、その具体的な内容については、見解が分かれる。図 30 大津京復原模型(大津市歴史博物館・滋賀県大津市御陵町)

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