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第四部◎近江遷都と天智天皇即位5252⑷ 鎌足の死 天てん智じ天皇が即そく位いして、おそらくはそれほど時の経たたないころのこと、群ぐん臣しんを召めして酒しゅ宴えんが催もよおされた。宴もたけなわとなったころ、大おお海あまの人皇み子こが突然長なが槍やりで敷しき板いたを刺し貫いた。天智天皇は多いに怒って、大海人皇子を処刑しようとしたが、鎌かま足たりが必死で留とどめて事なきを得たという。天智天皇と大海人皇子の間の微妙な関係を、鎌足がどうにかコントロールしていたらしい。天智7年(668)の新しら羅ぎ使し来らい朝ちょうに際しては、新羅の大だい臣じん・金庾信への贈り物を新羅使に言こと付づけている。大臣外交を展開していたのであろう。ようやく、鎌足が政治の表舞台で動くようになってきた感がある。 ところが翌天智8年(669)、鎌足は重い病になった。邸宅への落雷記事もあるので、何らかの関係があるのかもしれない。10月15日には大だい織しょっ冠かんと大おお臣おみの地位が授けられ、合わせて藤ふじ原わら賜し姓せいが行われた。その翌16日に、鎌足は死去する。『家か伝でん』は、廃はい朝ちょうは9日にわたり、公く卿ぎょうや百ひゃっ官かん人じんは棺ひつぎの前で泣き伏した。葬そう送そうに必要な品々は天智天皇から下か賜しされ、葬送の際に葬列が宮殿近くを通る折に、天智天皇は留めて棺に向かい、泣き咽むせんだ。遺体は、翌天智9年(670)閏うるう9月、山やま階しな精しょう舎じゃで火か葬そうされた。 大阪府高槻市・茨木市の阿あ武ぶ山やま古墳を、鎌足の墓に比ひ定ていする意見がある。阿武山古墳出土の繊せん維い製品を大織冠とみること、古墳の年代や想定される被葬者の年齢・性別が鎌足とあうこと、鎌足が一時隠いん棲せいした三み島しまの地であることなどが根拠になっている。『家伝』では火葬したと記載されており、これを信じる限り阿武山古墳は鎌足の墓にはなり得ない。一方、『日に本ほん書しょ紀き』では火葬とは記していない。火葬ではない可能性も存在していると考えられ、その場合は阿武山古墳にも可能性がなくはない。それでも、鎌足の埋葬地として知られるのは山階であり、またその廟びょう所しょは多とう武の峰みねであるから、阿武山古墳周辺ではない。これらの材料から考えると、阿武山古墳が鎌足の墓である可能性は低いと判断せざるを得ないだろう。 天智天皇は、鎌足の死後も生きた。規定の路線を着々と進めていっている。特に、天智9年(670)の庚こう午ご年ねん籍じゃく作成は画かっ期き的てきで、長らく氏し姓せいの根本台帳として重視された。図 33 談山神社 十三重塔  写真提供:桜井市(奈良県桜井市多武峰)

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