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54エピローグエピローグ 8世紀の皇位継承時に、繰り返し触れられる「不ふ改かいの常じょう典てん」は天智天皇(中大兄皇子)が制定したとされ、その背後には乙いっ巳しの変によって王権の主体性が確立されたという「物語」があったとの見解がある。皇こう極ぎょく天皇の譲じょう位いも「物語」の一部を形成していたとも見ることが出来よう。ただ「不改常典」という表現が示す強い規き範はん性と、「乙巳の変の物語」という表現との間には、若干距離があるようにも感じられる。 また、鎌かま足たりの誕生には、他にも伝説が伝わっている。『多とう武の峰みね縁えん起ぎ』には、鎌足の母が鎌足懐かい胎たい時に藤が日本国中に広がり花開く夢を見、また妊にん娠しん期間が12ヶ月に及び、8月15日に出産した、という奇き瑞ずいが語られる。新月・満月は出産が増える、ともいうが12ヶ月という異例の長さの妊娠期間を経ての8月15日生まれという物語には、一定の意味合いが込められていたものと考えるべきであろう。藤が広がる様は言うまでも無く、藤ふじ原わら氏の繁はん栄えいを暗示している。 また、『聖しょう徳とく太たい子し御事』などには、鎌足誕生の直後に、狐が秘法を授け、藤ふじ蔓づるが巻き付いた鎌を与えたという伝承が記される。狐は、「鎌で蘇我大臣の首をはねて大臣に上り、天皇の師範となり天子に法を授ける」と予言した。鎌足は、聖徳太子信仰と結びついて信仰上の位置づけを獲得していった、と言われる。 鎌足と仏教との関係では、長男定じょう慧えの存在も注目される。白雉4年(653)の遣けん唐とう使しで渡と唐とうし、斉明元年(655)に帰国した。なぜ長男を出家させたのかなど、疑問点も多い。 天智天皇(中大兄皇子)と鎌足のコンビは、律りつ令りょう国家の出発点を造り上げた名めい君くん臣しん関係として伝説化された。しかし、改めて鎌足の事じ績せきを探すと、乙巳の変以外はほとんど伝わっていない。天智の天皇の事績も、必ずしも天智天皇の事績と言えるのか不明な物が多い。 不比等以降の活躍によって、仮か託たくされた側面も多いと思われる。 ただし、「内うちつ臣おみ」という立場こそ、鎌足の、また藤原氏の得意とする立場だったのではないか。表にたたず、王おう家けに寄り添って、支える。まさに藤のイメージである。そう考えると、この間の出来事はすべて鎌足の事績にも思える。 ただ、乙巳の変の時、少し離れた場所で、弓矢を構えていた鎌足を思い出して欲しい。剣で直接打撃を加えるのでもなく、飛び道具を用意して控える。クーデター失敗の際にも、もっともリスクの低い立ち位置。 さて鎌足をどう考え、天智天皇をどう思うか。奈良の地を歩きながら考えて欲しいと思う。図 34 天智天皇陵(山科陵)(京都府京都市山科区御陵上御廟野町)

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