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第一部◎東アジア情勢の変革期88⑴ 中なかの大おお兄えの皇み子この誕生 中なかの大おお兄えの皇み子この諱いみなは葛かずら城きの皇み子こで、開ひらかすわけの別東とう宮ぐうとも呼ばれている。また諡し号ごうは天てん智じ天皇、和風諡号は天あめ命みこと開ひらかす別わけの天すめら皇みことで、近おう江み大おお津つの宮みや御宇天皇・近江天皇・田原天皇とも呼ばれる。 開別東宮は、和風諡号の「開別」に皇太子を示す「東宮」を合わせた呼称と考えられる。一方、当時の皇族がその資し養ように当たった氏族名、もしくは乳う母ばを出した氏族名で呼ばれることが多い点から考えると、「葛城皇子」の呼称からは「葛城氏」が資養に当たったか、乳母を出したと想定される。 中大兄皇子の父は舒じょ明めい天皇(田た村むらの皇み子こ)、母は皇こう極ぎょく(斉さい明めい)天皇(宝たからの皇ひめ女みこ)。(右記系図参照)。敏び達だつ天皇を中心にみると、舒明天皇は孫、皇極天皇は曾孫にあたり、異母の叔お父じと姪めいの関係となる。推すい古こ天皇(額ぬか田た部べの皇ひめ女みこ)の兄弟が皇極天皇の曾祖父にあたる。 さて、当時の天皇(大おお王きみ)家の系譜関係は極めて複雑だが、大きくは蘇そ我が氏の血が入る「蘇我系」と、それ以外とに分けることができる。また、蘇我系以外の有力な王族はみな敏達天皇に連なる(敏達天皇の子孫でも蘇我系と評価すべき王族も居るが)ので、敏達系とよぶことができるとされている。敏達系王族は、馬うま見み丘きゅう陵りょう周辺域に拠点を形成する一方、蘇我系では上じょうぐう宮王おう家け(厩うまや戸との皇み子この一族)がその北側、斑いかるが鳩地域に拠点を形成していたことが知られる。なお、両系統は必ずしも常時完全に対立的な関係にあったわけではなく、実際には王族ごとにそれぞれ細かな離合集散が見られる点も留意しておきたい。 この敏達系・蘇我系という二つの系譜で考えると、舒明天皇は敏達系王族の一人ということができ、皇極天皇は蘇我系王族とみることが出来る。この二人の間に生まれた中大兄皇子は、敏達系と蘇我系双方の血をひいていると評価できる。 中大兄皇子の生せい年ねんに関する史料は、①『日に本ほん書しょ紀き』舒明13年(641)10月丙へい午ご条じょうの「東宮開別皇子、年十六而誄之。」という記事、②『本ほん朝ちょう皇こう胤いん紹じょう運うん録ろく』(室町時代成立)の推古22年(614)生まれ・崩ほう御ぎょ時58歳という記載、③『一いち代だい要よう記き』(鎌倉時代)の崩御時53歳とする記載、④『神じん皇のう正しょう統とう記き』(南北朝時代)の崩御時58歳とする記載などがある。図 1 『日本書紀』舒明13年10月丙午条

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