庁中漫録

古文書「庁中漫録」は、江戸時代を中心とした大和の話題の宝庫です。
このコーナーでは、「庁中漫録」のくずし字を活字に直して掲載しています。
史料が語る生の声を聞いて、魅力あふれる大和の歴史に触れてみましょう。
また、古文書のくずし字に興味がある方のために原文も用意しました。ぜひ挑戦してみてください。

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『大和国の合戦模様』・『大和の国侍たち』解説

中世から近世初期における大和支配の変遷

 

 

はじめに


『大和国の合戦模様』・『大和の国侍たち』は、「庁中漫録」巻19「大和国著聞記」の一部ですが、そこには、戦国時代に大和を統一した筒井順慶を中心に、武士たちが大和の主導権を巡って争いを繰り広げた様子が描かれています。
史料に描かれた時代の背景を知るために、ここでは、平安時代末期から江戸時代のはじめにかけての大和の支配のうつりかわりについて、順を追って見ていきましょう。

 

 

(1)興福寺の支配と大和武士の台頭


摂関家藤原氏の氏寺であった興福寺は、平安時代末期、春日大社や大和の寺の多くをその荘園とともに手にいれたことにより、大和の一大荘園領主となりました。さらに、興福寺は武力を手に入れて、自らの地位をさらに揺るぎないものにしようと考え、大和国内の武士たちを衆徒(しゅと・興福寺に属して僧侶の身なりをした武士)・国民(こくみん・興福寺の支配下にあった春日大社の神職であった僧侶の身なりをしていない武士)として配下につけました。
こうして、地方の小さな領主にすぎなかった武士たちは、興福寺という後ろ盾を得ることによって自分が支配する土地の維持をはかりました。またそればかりか、興福寺の財源に関わる重要な仕事を担うなどして寺の内部で実権を握り、興福寺をおびやかすほどの存在になります。しかしその反面、その活動は興福寺の権力を基盤としていたため、興福寺に対抗するような大名は現れませんでした。

 

 

(2)松永久秀の侵攻と順慶の大和統一


南北朝から室町時代にかけて、武士たちは興福寺や朝廷・幕府の内紛に影響されつつ、国内の武士同士で覇権争いを繰り広げました。しかし次第に、国外の勢力が大和を支配しようと侵入するようになります。
そのような状況下、室町幕府の実権を握り畿内一円を手中におさめつつあった三好長慶は、配下の松永久秀を大和に送り込みました。
久秀は永禄2年(1559)に信貴山城に入城し大和攻めを開始し戦いに勝利しました。そして長慶より、また長慶死後は室町幕府15代将軍足利義昭と織田信長によって、大和一国の支配を認められました。
久秀は、土地支配をはじめ、興福寺が取り仕切っていた祭礼行事をつかさどり、さらには裁判権をも握りました。久秀は、大和で初めて興福寺の権力を基盤としない国内統治を行ったのです。

この久秀に対抗したのが、筒井順慶でした。父順昭の代で結集しかけていた大和の国人たちも、勢いのある久秀に寝返るなど、順慶にとって苦しい時期が続きました。しかし、元亀2年(1571)、久秀が織田信長から離反しその大和支配が終わりをむかえると、次第に勢力を盛り返し、ついに、天正4年(1576)織田信長より大和一国支配の命をうけます。

筒井順慶坐像(所蔵:光専寺 写真提供:大和郡山市教育委員会)

一方の久秀は、信長から離れたあとは多聞城から信貴山城に移りましたが、天正5年(1577)順慶の攻撃をうけ自害しました。その最後の戦いの様子は、史料紹介の『大和の国侍たち』に記載されています。順慶が策を練って、信貴山城に自軍の兵を忍ばせることに成功したというエピソードが描かれています。
こうして順慶は、郡山城以外の城を取り壊し、また検地を行うなど、信長の命令のもとに大和の支配を進めました。

その信長は、本能寺の変(天正10年・1582)にて明智光秀に滅ぼされました。光秀と豊臣秀吉との間に戦いがおこると(山崎の戦)、光秀は順慶を味方に引き入れようとしますが、順慶は形勢の有利な方につこうと様子をうかがいます。この様子は、「洞ヶ峠を決め込む」という言葉の由来となった話で、史料紹介の『大和国の合戦模様』にも記載されています(実際は、順慶は洞ヶ峠には出陣せず、郡山城にて軍議を重ねていたというのが真相のようです)。

筒井順慶坐像(所蔵:光専寺 写真提供:大和郡山市教育委員会)
 

結果、秀吉が光秀を破ったのちに天下統一を果たし、順慶の大和支配もそのまま認められることとなりました。

 

 

(3)豊臣政権下の大和政策


豊臣秀長墓(大納言塚)順慶の死後、養子の定次が跡を継ぎましたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の命令により伊賀国上野(現・三重県伊賀上野市)へ転封となりました。これにより、定次に従っていた大和の国人たちは、伊賀に移り住む者、大和で帰農する者にわかれました。定次の代わりに郡山城に入ったのは秀吉の異父弟である秀長でした。
秀吉は郡山城を、大坂城の東を守り大和国中を押さえとなる重要な城と位置づけていました。そのため、定次を転封することによって、興福寺と結びついて力を持っていた武士たちを大和から一掃し、興福寺と彼らの関係を絶ったうえで新しい秩序をつくりあげることを目指したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

豊臣秀長墓(大納言塚)

(4)豊臣政権の滅亡と江戸幕府のおこり


豊臣秀吉の死後、石田三成と徳川家康が対立したため、慶長5年(1600)関ヶ原の戦がおこりました。この時郡山城では、高野山に蟄居(謹慎)となった西軍(三成方)の増田長盛のかわりに、渡辺勘兵衛が籠城して東軍の家
康方と戦いました。この渡辺勘兵衛の活躍については、史料紹介の『大和国の合戦模様』にも記載があります。勘兵衛の知慮に富んだ行いは、敵将である藤堂高虎の心をもとらえ、この後2万石という破格の待遇で召し抱えられます。

徳川家康が天下統一を果たした後、大坂の陣が起こったことによって、大和の多くを占めていた豊臣方の領地は召し上げとなり、大和の領主編成も大きく変わることとなりました。
大和武士たちは、筒井順慶の家臣であった松倉氏や中坊(なかのぼう)氏のように徳川家康のもとで手柄を立て大名や奉行(旗本)となった者もいましたが、多くは大坂の陣で豊臣方に味方して歴史の表舞台から姿を消しました。

郡山城大和の領主編成は、譜代大名の郡山藩のほかは大名・旗本・寺社等の小領主が乱立するという特徴がありました。畿内近国は西日本での非常事態に備える幕府の軍事力として、多くの譜代大名が配置されており、郡山藩も、京都の朝廷や奈良の寺社をまもるという役割を担っていました。一方、個別領主の支配の枠を超えて一国の行政・裁判を担ったのが奈良奉行でした。奈良奉行は、興福寺が担っていた若宮祭り(おん祭り)などの祭礼を代行し、南都の寺社を統制する役割も果たしました。こうして、長きにわたって力を持ち続けてきた興福寺も徳川の支配に組み込まれ、大和武士が戦いをくりかえした時代は終わり、新しい時代へと進んでゆきます。

郡山城

 

 

参考文献

・永島福太郎『奈良』(吉川弘文館, 1963)
・籔景三『筒井順慶とその一族』(新人物往来社, 1985年)
・安国陽子「戦国期大和の権力と在地構造」(『日本史研究』341号, 1991年)
・朝倉弘『奈良県史 11巻 大和武士』(名著出版, 1993年)
・安田次郎『中世の奈良』(吉川弘文館, 1998年)
・和田萃・安田次郎・幡鎌一弘・谷山正道・山上豊『奈良県の歴史』(山川出版社, 2003年)
・岩城卓二『近世畿内・近国支配の構造』(柏書房, 2006年)
・藤本仁文「近世中後期上方における譜代大名の軍事的役割―郡山藩を事例に―」(『日本史研究』534号, 2007年)
・福島克彦『畿内近国の戦国合戦』(戦争の日本史11)(吉川弘文館, 2009年)
・大宮守友『近世の畿内と奈良奉行』(清文堂出版, 2009年)
・葛城市歴史博物館『守る城、攻める城―関ヶ原合戦から大坂の陣―』(2013年)
・田中慶治『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂出版, 2013年)
・天野忠幸『三好長慶』(ミネルヴァ書房, 2014年)
・幡鎌一弘『寺社史料と近世社会』(法藏館, 2014年)


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