大久保長安 おおくぼながやす

1545-1613(天文14-慶長18)

江戸初期の奉行衆。猿楽衆大蔵大夫の次男であり、はじめ甲斐武田氏に仕えたが、武田氏滅亡ののちに徳川家康に登用され、大久保忠隣の推挙を受けて大久保十兵衛と名乗った。長安の検地は石見検地・大久保縄などと呼ばれ、江戸初期において幕府が行った検地の代表的な仕法となった。江戸幕府成立後は家康の側近として支配領域を拡大し、特に産業面で才能を発揮した。主な政策は石見・佐渡・伊豆の金銀山の開発による金銀の増産や、東海道・中山道における一里塚の設置などである。慶長18年(1613)に病没し、その後遺子7人全員が切腹を命じられた。生前の金銀隠匿などが理由とされている。