『楽毅論』
光明皇后の真筆と伝わる
(正倉院宝物 写真提供:宮内庁正倉院事務所)

光明皇后 こうみょうこうごう

701-760(大宝元-天平宝字4)

藤原不比等の三女として誕生し、名は安宿媛(あすかべひめ)、また光明子などと伝えられる。聖武天皇の夫人(皇后に次ぐ位)であったが、天平元年(729)はじめて皇族以外から皇后となる。興福寺に五重塔・西金堂を造立し、聖武天皇の病気平癒のために新薬師寺を造立するなど、天平文化の発展に寄与した。また、救済事業にも関与し、貧しい病人に施療する施薬院や孤児を収容する悲田院を設けた。病気がちであった聖武天皇にかわって宮廷にて重きをなし、天平勝宝元年(749)には娘の阿倍内親王が即位して孝謙天皇となって以後も権勢を振るった。天平勝宝8年(756)、聖武天皇の一周忌に遺品の品々を東大寺に献納した。これらが現在正倉院宝物として中心をなす文化財である。他にも皇后の筆である『楽毅論』『杜家立成雑書要略』などもある。皇后死後の天平宝字4年(760)、聖武天皇陵の東隣にあたる大和添上郡佐保山東陵(奈良市法蓮町)に葬られた。